異なる意見の大切さ

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僕が社会人になって働いた会社は僕を含めてスタッフが5人に満たない小さなところでした。結局僕は、この会社を3ヶ月働いた後の社会人最初の夏にやめることになりました。

会社の考え方が強くでることもあったと思います。僕自身の心の問題もあったのだと思いますが、やめる1ヶ月前くらいの僕はほとんど思考停止に陥っていました。

というのは、つまりあの人がああいうからそうなんだろう。というように思うようになっていたのです。

あの時は、僕が何か意見を言っても「考えていない」だとか「考えたふりすらしていない」「使えねぇ」「クズ」と日常的に言われる日々でした。しまいには「感情がないように見える」などとまで言われたことがあります。

その時の僕にとって社会とは「あの会社」であり、常識も「あの会社」がすべてでした。一部違和感を感じることがあったとしても、数か月たったころにはもはやそう思うこともありませんでした。というよりも、反論したところでどうせ「分かってない」「考えたふりをしている」といわれて一蹴されるだけだったので言う気にもなりませんでした。それで頭ごなしに否定しているということを相手に伝えると今度は「俺のせいか」と言われるので、いよいよ何も言い返す気にならなくなっていきました。

はっきりいって、僕の立ち回りが下手くそすぎたのも大きな原因です。

僕がそれでも、今こうしてひとつの常識から少しだけ距離を置くことができたのは、違う意見を言ってくれる人たちが少しでもいたからでした。

僕が「最近は、○○さんが言ってるからそうなんだろうって思うようになっています」といったときに「そうなったら、ヤバいよ」と言ってくれた人がいました。

「確かに何も出来ていませんから」と言ったときに「これはお前がつくったんだろ。出来てんじゃん。」と言ってくれて

「○○たちはお前のこと馬鹿にしてんだよ。見ててむかつく」というようなことを言っていた人がいました。

そのときは、残念ながら響きませんでしたが。

会社をやめた後話した学生時代の友人と会って話したときは「そこは言い通せよ!」と叱られました。

別の友人には「良いんじゃないの」と言われました。

両親には働いている最中にも、やめた後にも色んな意見を言ってもらえました。日常的に否定される環境においては継続的に別の意見を言ってくれる存在は特に重要でした。

別の意見を言ってくれる人たちがいたから社会人1年目に身に着けた常識や自分に対するレッテル張りに対して、別の見方ができています。

もし、こういうことを言ってくれる人たちが周りに一人もいなかったらと思うと、少しゾッとします。もともと、絶望思考が強い自分は、一層酷い罰を自分の体に与えることになっていたかもしれませんし、限界までいったら首をくくっていたのかもしれません。

といっても、悪いことばかりではなくて確かに自分は役立たずだったと思いますし、今まで色んな人の配慮のおかげである程度問題ないように見えていただけでコミュニケーション能力が酷いということも自覚しました、そして想像以上に自分がだらしないということも自覚しました。だから、あの会社で言われ続けたことは間違いだなんて言いません。

ただ「僕は何も考えていなくて、コミュニケーションも下手くそ」かどうかは別にどうでもよいことです。悪い点があれば改善すれば良いし、問題なければさらに向上させるだけですから、やることは変わりません。ここで最悪だったのは、結果的に「思考停止に陥ってしまっていた」ということです。思考停止に陥ってしまうと、本当に何もできなくなってしまうのですから。

一般的なレベルが何を指しているのかは分かりませんから、周りから見て僕がどうなのかは分かりません。

でも、3年前よりも大分良くなったと思います。だから結果オーライだと今思うことができています。

あの会社でスタッフの人たちが僕に伝えようとしていたことの本質を理解できた気はしません、今考えてもよく分からないことがありますが、それはこれから自分なりに考えて、回答を出せれば良いのだろうと思っています。

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